上野 明氏(第63・64期編集理事)コラム

2015年

鉄道シリーズ「近鉄編:なりたちなど」

近畿日本鉄道(通称:近鉄)は,路線距離501.2kmの日本最大の 私鉄です.[保有車両最多の私鉄は東京メトロ]近鉄の成り立ちは 複雑で,1914年に大阪・上本町〜奈良間で営業運転を開始した大 阪電気軌道を祖として,幾多の合併・分離を繰り返して現在に至って います.歴史も古く,路線距離も長いことから(鉄道ファンにとっては) 興味深いことも多いため,次回以降で,その幾つかを紹介します. なお,近鉄の成り立ちをまとめたノンフィクションの「東への鉄路近鉄 創世記 上・下巻(木本正次著,学陽書房)」という単行本があり,近 鉄ファンにはお薦めしたい図書です.

近鉄編:奈良線生駒トンネル

大阪と奈良の間には「生駒山地」があるため,JR線は生駒山の北(学研都市 線)および南(大和路線)を迂回していますが,近鉄の前身である大阪電気軌道 は,大阪・奈良間を最短で結ぶべく,全長3,388mの生駒トンネルを掘削しまし た.完成当時(1914年)では,国内で2番目に長いトンネルでした.(最長は, 現・JR中央本線笹子トンネル.複線用トンネルでは生駒トンネルが最長)  生駒トンネルの工事は難航を極め,落盤事故も発生して工事費も膨らみます が,工事を請け負った大林組の当時の社長は私財を投じて難工事を完了させました.  現在の近鉄奈良線は,1964年に完成した新生駒トンネル(全長3,494m)を使っ ていますが,旧・生駒トンネルの一部は,近鉄けいはんな線生駒トンネル(全長 4,737m)として利用されています.

鉄道シリーズ「近鉄編:日本で初めてのケーブルカー」

大阪電気軌道は生駒トンネルの工事費が膨れあがったこと等により, 切符の印刷費も支払えないほどの深刻な経営難に陥ります.そのため, 大阪電気軌道が開通したことで参詣客が増えた宝山寺(通称・生駒聖天) から賽銭を借りることで急場を凌ぎました.このお礼の意味を込めてか, 大阪電気軌道は,生駒駅から宝山寺駅までの間に日本で初めてのケーブル カーを敷設し,1918年から営業運転を始めました.このケーブルカーは, 現在でも近鉄生駒鋼索線として運用されています.

近鉄編:日本で最長のトラス式鉄橋など

近鉄京都線の前身は,奈良電気鉄道です.奈良電気鉄道は,私鉄の路線がな かった古都京都と古都奈良の間を結ぶべく,1928年に京都〜西大寺(現・近鉄大 和西大寺)間の営業運転を始めます.路線の途中に宇治川(淀川の上流)という 川がありますが,当時は陸軍の演習場になっていたため,宇治川の河原内に橋脚 を建てることができませんでした.そのため宇治川を跨ぐ「澱川橋梁」は,日本 最長の長さ164.6mを誇る単純トラス橋として建設されました.なお,澱川橋梁を 京都側へ越えたところにある桃山御陵前駅からは,鉄筋コンクリート製の高架に なっています.桃山御陵への参詣者の妨げになる踏切を設けないよう,当初は地 下線が計画されましたが,周辺一帯は「伏見酒」の生産地であり,地下線建設に 伴う地下水の枯渇の恐れがあるため,高架線に変更されました.

鉄道シリーズ「近鉄編:近鉄京都駅」

京都線の京都側の終点は京都駅です.当初,奈良電気鉄道は,京都駅の手 前 から地下へ潜り,現・JR京都駅正面(京都タワー側)に地下ターミナルを作 る計画を立てていました.しかし,1928年11月に京都御所で開催の昭和天皇即 位大祭典に間に合わないことがわかり,急遽,八条口側に仮設駅を設けるよう に計画変更しました.その後も地下ターミナルは実現しないままでしたが, 1964年に運転開始した東海道新幹線の京都駅は八条口側に設けられたため, 京都駅で降りた新幹線利用客が,スムーズに近鉄に乗り換えできるようになり, 仮設駅のままであったことが功を奏しています.

近鉄編:大阪線・青山トンネルなど

大阪電気軌道は,東を目指し,路線を拡張し続けます.まずは,伊勢神宮を目 指して宇治山田駅までの路線,続いて,伊勢電気鉄道を合併して名古屋までの路 線の拡張です.電車による高速鉄道を指向していた大阪電気鉄道は,伊勢までの 途中にある山岳地帯を貫くルートを選択します.三重県伊賀市と津市の間にある 布引山地を貫く区間は幾つかのトンネルを含む単線になっており,最長のトンネ ルが青山トンネル(全長3,432m)で1930年に完成しました.単線区間は列車運行 の支障になるため,この区間も順次,複線化されますが,青山トンネルを含む区 間は最後まで単線のまま残りました.1970年にATS(自動列車停止装置)の故障 が原因で発生したトンネル内衝突事故を受け,この区間も全線複線の新路線に切 り替えられ,現在では全長5,652mの新青山トンネルが使われています.  なお,この区間は33.3‰(1000mで33.3mの勾配)の区間が10km程度続く山岳路 線であったため,この区間を高速走行するために高出力モータと発電ブレーキを 備えた電車が新造されました.

鉄道シリーズ「近鉄編:近鉄名古屋線」

近鉄名古屋線の成り立ちも複雑です.基盤となるのは,当時,大阪電気軌 道および, その子会社である参宮急行電鉄と競合関係にあった伊勢鉄道(後の伊勢電気鉄道)の 施設した桑名駅?江戸橋駅の路線です.その後,伊勢電気鉄道と参宮急行電鉄が共同 出資して設立した関西急行電鉄が,経営破綻した伊勢電気鉄道の路線を引き継ぐとと もに,名古屋へも進出します.しかし,名古屋?江戸橋間は「狭軌(レールとレール の間隔が1067mm)」,その他の路線は「標準軌(レール間隔が1435mm)」であったた め,大阪・名古屋間を直通の列車が走ることができない状態でした.その後,第二次 世界大戦中の1944年に関係各社が合併して近畿日本鉄道が誕生しますが,名 古屋線の 標準軌への改軌は近鉄の悲願でした. (※JRを基準に考えると,1067mmが 標準軌,1435mmは広軌になりますが,今回のコ ラムでは近鉄を基準にしているため,1435mmを標準軌,1067mmを狭軌と記しています)

鉄道シリーズ「近鉄編:近鉄名古屋線・改軌工事」

前回記したように,近鉄にとって名古屋線標準軌への改軌は悲願でした. そのため,1960年春の改軌完了へ向けて準備が進められていました. そのような中,1959年9月26日に伊勢湾台風が上陸します. 東海地方は甚大な被害を被りますが,近鉄名古屋線も壊滅的な状態になります. 当時の佐伯 勇・近鉄社長は,「台風被害からの復旧と,改軌工事を同時に行う」 という大英断を下します.工事は順調に進み,同年11月27日 に全ての区間での工事が完了し, 12月12日 から上本町駅〜名古屋駅および名古屋駅〜宇治山田駅間での直通運転が開始されます. 当日,大阪?名古屋間を直通特急として駆け抜けたのは,ビスタカー(2代目の10100系)でした.

近鉄編:近鉄特急

「近鉄特急」という言葉は,近鉄の代名詞であると言っても過言ではありません. 近鉄では戦後まもない1947年に,座席指定式有料特急の運行を始めます.1957年には, 2階建て車両を含むビスタカー(10000系)が登場します.2階建ての高速走行可能電車は 世界初でもありました.この車両は,冷房装置,シートラジオ,列車用公衆電話を備えるとともに, 複層ガラス式完全固定窓を採用しており,その後に登場する国鉄(現・JR)20系特急電車 (通称:こだま号)や,国内の有料特急電車の設計にも影響を与えたと言われています. 初代ビスタカー(10000系)は試作的要素の強い列車でしたが,1959年には量産型(2代目) ビスタカー(10100系),1978年には3代目ビスタカー(30000系)が登場します. その間,修学旅行専用のビスタカー(通称:あおぞら号)も登場します.あおぞら号は世界初の オール2階建て電車です.その後,ビスタカーに代わり,1988年登場のアーバンライナー(21000系) などが近鉄特急の顔になります.また,ワンランク上の豪華さを指向したプレミアム特急 (通称・しまかぜ号)50000系が2013年から運転を始めています.

鉄道シリーズ「近鉄編:番外編」

日本の鉄道の多く(JR,関東の私鉄など)は,軌間[レールとレールの間隔]は1067mmを 採用しています.新幹線や,近鉄を含めた関西の私鉄の多くは,軌間1435mmを採用しています. 逆に,1067mmより狭い762mmの軌間もあり,軽便鉄道あるいはナローゲージなどと呼ばれています. 現在,国内で,営業運転を行っている軽便鉄道は3路線あり,うち2路線は近鉄の系列会社が 運用中であり,近鉄四日市駅を起点する「四日市あすなろう鉄道(旧・近鉄内部・八王子線)」と, 近鉄桑名駅(正確には,西桑名駅)を起点とする「三岐鉄道北勢線(旧・近鉄北勢線)」です. マッチ箱のような小さな車両がトコトコと走り,現在も地元住民の足となっています.  ところで,桑名駅から南に少し下った所に,世界的にも珍しい場所があります. 短い距離ではありますが,標準軌(近鉄名古屋線),狭軌(JR関西線)とナローゲージ (三岐鉄道北勢線)が並行して走っている風景を眺めることができるスポットです. (※3つ目の路線は黒部峡谷鉄道)

2016年

リニアモーターカー(1)

東海道新幹線が営業運転を開始したのは1964年10月1日でした.現在,JR東海が2027年の東京・品川?名古屋間での開通を目指して建設を進めている「超電導リニアによる中央新幹線(以下,リニアモーターカー)」は,東海道新幹線開業前の1962年に,当時の国鉄によって研究開発が開始されていました.東海道新幹線は,その後大成功を収めますが,にも関わらず当時の国鉄がリニアモーターカーの研究を開始し,継続するのには理由がありました.その理由や,当時,世界各国で研究が進められていた「超高速鉄道」について紹介します.

 

リニアモーターカー(2)

第2次世界大戦前からもヨーロッパを中心に,鉄道の高速走行への試みは行われていました.戦前の最高速度記録は,1931年にドイツのシーネンツェッペリン号が樹立した時速230.2kmです.  戦後になると,フランス国鉄による高速走行試験が続けられ,1955年にはBB9000型電気機関車が3両の客車を連結して,時速330.9kmの世界記録を樹立しました.しかし,この高速走行試験では,列車の蛇行動により線路はグニャグニャになり,高速走行中の機関車のパンタグラフからはスパーク火花が飛びっぱなしでした.当時,鉄道の高速化のためには「3つの壁」があるとされていました.第一の壁は高速走行車両の「蛇行動」,第二の壁は,電化された車両への「電力供給方式」,第三の壁は,鉄製車輪と鉄製レールの間の「粘着力」でした.日本のリニアモーターカーは,これらの「三つの壁」を如何に乗り越えるかの研究開発の賜物でした.

リニアモーターカー(3)

前回述べた「三つの壁」の一つである「蛇行動」については,戦後の国鉄では,GHQにより職を解かれた航空機開発技術者を国鉄へ招き,島 秀雄によって当時の鉄道技術研究所内に設けられた「高速台車振動研究会」にて,研究が進められました.その結果,航空機における「フラッタ」と鉄道車両の「蛇行動」は同じ現象であることを見い出し,東海道新幹線において「蛇行動」を抑えるための台車(DT200型)が開発され,0系新幹線車両に採用されました.

リニアモーターカー(4)

二つ目の壁である電化された車両への「電力供給方式」に関しては,架線とパンタグラフの密着性を向上させるための「下交差式小型パンタグラフ」や,スパーク低減のための高電圧(低電流)方式[交流25000V方式]が新幹線に投入されました.しかし,時速300km以上での安定した電力供給には困難が多いため,当時の国鉄は,列車用ガスタービンエンジンの研究開発も行いましたが,騒音の問題もあり,結局は,非接触で電力を供給可能な「超電導方式」の研究開発を継続しました.

リニアモーターカー(5)

三つ目の壁は前述のように,鉄製車輪と鉄製レールの間の粘着力の問題でした.当時は,車輪とレールの粘着力は走行速度とともに低下し,時速300kmを越えた付近で車両の走行抵抗が粘着力を上回るとされており,如何に車両の動力源をパワーアップしても,車輪が空転するだけで速度向上は望むことはできないと考えられていました.そのため,当時の国鉄は,第二・第三の壁を克服すべく,非接触で電力供給ができ,車輪とレール間の粘着力に頼らない,超伝導磁気浮上式鉄道の研究開発に踏み切り,その後も研究開発を継続し,現在に至りました.

世界における超高速鉄道開発史(1)

日本がリニアモーターカーの研究を進める中,世界各国でも超高速鉄道の研究開発が進められていました.その代表的なものの幾つかを以降で紹介します. 当時,鉄道高速走行の世界記録(1955年に樹立の時速330.9km)を保持していたフランスでは,1965年からアエロトランの開発が始まりました.アエロトランは,ホバークラフトと同じ原理により車体を浮上させ,プロペラエンジンやジェットエンジン等で推進力を得る方式です.1974年には,80人乗り試験車両で時速430.4kmの記録を樹立しますが,その後登場するフランス新幹線TGVに比べ,輸送容量が低い等の理由で,1977年にアエロトランの開発は終焉を迎えました.

世界における超高速鉄道開発史(2)

ドイツでも,トランスラピッドという磁気浮上式鉄道の開発が進められていました.トランスラピッドは,地上に設けられた「ステータ」という鉄製部品と車載電磁石との電磁吸引力で車体を約8mm浮上させ,リニアモータ推進で走行します.高速走行時の車両への給電は,電磁誘導方式の非接触で行われます.1993年には有人車両で時速430kmの磁気浮上式鉄道としては当時の世界最高速記録を樹立し,その後,2006年には中国・上海国際空港のアクセス鉄道として採用され,営業運転が始まりますが,ドイツ国内においては,ドイツ新幹線ICEに比べメリットが少ない等の理由で,2011年にトランスラピッドの開発は打ち切られます. (※地震の多い日本では,車体の浮上量8mmでは足りず,リニアモーターカーの浮上量は10cmになっています.)

世界における高速鉄道開発史(3)

アメリカは自動車社会の国ですが,日本の東海道新幹線の実績に注目した当時のジョンソン大統領のもとで1965年に「高速陸上輸送機関開発法」が制定され,大都市間高速鉄道の研究開発を始まりました.代表的なものとしては,MITが提案した「グライド・ウェイ」,ブルックヘブン国立研究所が提案した「磁気浮上列車」,チューブ交通会社が提案した「真空チューブ列車」などがありました.何れも実現はしていませんが,現在でも,構想としては残っているものもあります.

世界における高速鉄道開発史(4)

日本においてもリニアモーターカー以外に,超高速鉄道の研究が行われていました.名城大学理工学部の小沢久之丞教授によって,ロケット列車の開発が行われていました.ロケット列車は,前回紹介した「真空チューブ列車」の一種であり,真空チューブ内をロケットエンジン推進の列車を走行させるもので,1970年には小動物を載せた試験車体が,時速2500kmという驚異的な速度を達成しますが,発車・停止時の加速度が大きすぎ,人体は耐えることができない等の理由で,その後,開発は打ち切られます.現在でも,名城大学には,当時のロケット列車が展示されています.

世界における高速鉄道開発史(番外編)

以上のように,当時,世界各国で進められていた超高速鉄道の研究開発は,日本のリニアモーターカーを除き,すべて終わっています. ところで,日本の東海道新幹線の成功を契機に,世界各国で「新幹線」が建設されるようになり,日本の新幹線と各国の新幹線が比較されます.走行速度では,日本の新幹線は世界一ではありませんが,開業以来,無事故(営業運転中の脱線等による死亡者はゼロ)の実績は,他国の新幹線を凌駕する点です.もう一つ,日本の新幹線車両が他国の新幹線車両より勝っている点があります.他国の新幹線車両の車幅は,最大でも3000mmを少し超える程度であるのに対し,日本の新幹線は,山形・秋田新幹線用車両を除き,車幅は3380mm(N700系等,一部を除く)あり,これはある意味で驚異的な値(注)です.昨年12月,インド国鉄が日本の新幹線方式を採用することを決めました.インド国鉄の軌間は1676mmと日本の新幹線の1435mmより遙かに広いため,インド新幹線車両の車幅がいくらになるのかが楽しみです. (注:日本の新幹線方式を採用した台湾新幹線の車幅は3380mmです)

鉄道編パート3:鉄道車両の賞(1)

先日,アメリカでオスカー賞の発表がありました.日本材料学会にも論文賞を含め,幾つかの賞がありますが,日本国内の鉄道車両に与えられる賞もあります.今回のコラム(鉄道編パート3)では,その賞の中の代表的な物を紹介します.  「鉄道友の会」が毎年,友の会会員の投票によって決める賞が二つあります.ブルーリボン賞とローレル賞です.  ブルーリボン賞は1958年に制定され,翌59年から授賞が始まった比較的歴史の古い賞です.選定の候補になる条件は,「受賞年の前年に国内で営業運転を開始した鉄道車両」で,毎年一形式のみが選ばれます.歴代の代表的な受賞車両としては,第1回(1958年):小田急3000形(ロマンスカーSE型),第2回(1959年):国鉄151系(こだま形),第3回(1960年):近鉄10100系(2代目ビスタカー),・・・,第8回(1965年):国鉄新幹線(0系),・・・,第57回(2014年):近鉄50000系(特急しまかぜ),第58回(2015年):JR西日本W7系・JR東日本E7系(北陸新幹線用車両)などなど,いわゆる「名車」が名を連ねています.  年一形式しか選ばれませんので,特急型車両が選ばれることが多いですが,ディーゼルカー,機関車,客車でも構いません.「該当なし」という年もあります.

鉄道編パート3:鉄道車両の賞(2)

前回記したように,ブルーリボン賞は特急型車両が受賞する傾向が強いため,鉄道友の会によって1961年に「通勤型と近郊型を対象に,製作意図・技術・デザインなどで優れた車両」を対象にしたローレル賞が制定され,翌年から授賞が始まります.第1回(1961年):京阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)2000系・2300系,・・・,第55回(2015年):JR東日本EV-E301系(通称:ACCUM)・箱根登山鉄道3000形(通称:アレグラ)が受賞しています.ローレル賞は,年一形式ではないので二形式以上が同時受賞のこともあります.また,通勤形・近郊形対象といいながら,特急形車両が受賞することもあります.東海道新幹線の100系,300系や700系がその例です.

鉄道編パート3:鉄道車両の賞(3)

もう一つの大きな賞は,グッドデザイン賞です.この賞は1957年に制定されましたが,1984年に賞の対象が全ての工業製品に拡大されたのを受け,1986年に鉄道車両として始めて,近鉄の東大阪線(現・けいはんな線)用(大阪市営地下鉄中央線との相互乗入れ用)車両7000系が受賞します.その後も多くの鉄道車両が受賞し,前述のブルーリボン賞とグッドデザイン賞をダブル受賞した車両もありますが,同じ年に二つの賞をダブル受賞したのは,これまでで1回で,京阪電車の3000系(2009年)のみです.  以上の3つの賞は受賞すると,記念プレートも授与されます.電車の場合は,先頭車の運転席入口扉近くの客室壁に取り付けられることが多いため,探せばすぐ見つかります.

鉄道編パート3:鉄道車両の賞(番外編)

その他,比較的歴史は浅いですが,鉄道車両も対象とした国際賞としてブリネル賞があります.直近では,2014年にJR九州の「ななつ星in九州」(DF200形7000番台ディーゼル機関車と77系客車)などが受賞しています.  鉄道車両の賞ではありませんが,鉄道を含めた交通機関(機械工学)の発展に大きく貢献した人に英国機械学会から授与される,国際的にも有名な賞があります.蒸気機関(車)を発明したジェイムズ・ワットにちなんだ「ジェイムズ・ワット国際メダル」です.  日本人として1969年にこの賞を始めて受賞したのは,東海道新幹線の成功に大きく貢献した(事実上の総括責任者)である島 秀雄です. (1991年に本田宗一郎,1995年には豊田英二も受賞しています.)

「鉄道&富山編」

今回,総会・学術講演会が開催される富山には,「国土交通省 立山砂防工事専用軌道(通称・立山砂防トロッコ) 」があります.ここには,18kmの路線区間の38段ものスイッチバック(うち,18段は連続)があり,世界的に見ても最大級規模です.スイッチバックとは,列車が前進と後進を繰り返しながら,急勾配を登るための路線です.ここのスイッチバックでは,18kmの距離で高度差が約640mもあります.残念ながら,普段はトロッコに乗ることはできませんが,立山カルデラ砂防博物館へ行くとトロッコを見ることができます. 学会期間中に時間があれば行ってみるのも面白いかも知れません.